柔術 帯制度(JBJJF)

以下の歴史はグレイシーバッハJAPANとグレイシーアカデミーの公式サイトなどを元に記述する。
20世紀前半、日本を離れた前田光世の柔術にほれ込んだスコットランド系移民をルーツに持つガスタオン・グレイシーが自分の子供達に柔術を教えてほしいと依頼し、長男のカーロス・グレイシーらが前田から学ぶこととなった。
末弟のエリオはカーロスから学んだが、カーロスと比べて肉体が決して強くなかったエリオはてこの原理を応用した技術開発に取り組み、その延長線上で教授法を獲得して兄弟の仲でも頭角を表し始めた。
カーロスは自らだけではなく、兄弟達の試合のマネージメントを行って柔術の有効性を証明し続けることで着実に国内での柔術の足場を築いていった。
特にエリオは技術に秀でていたことから積極的に他流試合に出続け、その中でも特に知られているのがエリオと木村政彦の一戦であり、エリオは最終的に敗れたがその前の試合では日本人柔道家相手に好成績を残しており内一人を十字絞めで絞め落とし、日系人コミュニティを大いに動揺させた。

1950年代-90年代
1950年代以降、グレイシー一族が活動していたブラジル北東部におけるバーリ・トゥードは衰退期に入っていったが柔術は存続し続けた。
カーロスは20人以上の子供をもうけたが、多くを人格者、指導者として優れていたエリオに預けていた。
一族でも史上最高の柔術家と目されているホーウス・グレイシーもその一人だった。
ホーウスはエリオが重視していた防御的なスタイルに限界を感じ、自ら積極的に攻め立てるスタイルを模索して柔術だけではなく柔道、レスリング、サンボといった他の組技系格闘技を修めて柔術に技術革新をもたらした。
後にホーウスは事故死してしまうが、彼の指導を受けて成長し、バーリ・トゥードで名を馳せていたレイ・ズールを破ったヒクソン・グレイシーをはじめとする新世代のグレイシー一族や、オズワルド・アウヴェスといった非グレイシー系の黒帯が増えたことで柔術の普及は進んでいった。

1990年代 - 2000年代
もともと何でもありのケンカでは強いのは打撃であり組技は実戦では役に立たないと思われてきた。
そんな中で1993年11月12日、エリオの息子ホイス・グレイシーが、長兄ホリオン・グレイシーが主催したUFC 1(反則攻撃が目潰し、噛み付きのみの格闘技大会)で参加選手中、最軽量だったにもかかわらず優勝し、一躍柔術が脚光を浴びた。
この大会は広いフィールドで1対1の状況が約束されているという柔術が最も得意とする状況で行われたため、大会の認可が下りた際ホリオンは柔術による世界の格闘技市場制圧を確信したとまで語っている。
その結果、全米中の格闘技の道場やジムでブラジリアン柔術が普及し始めグレイシー一族だけではなくビクトー・ベウフォートやアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラら柔術をバックボーンにもつ格闘家が好成績を収めるとその他の格闘家も寝技を研究していき、世界の格闘技情勢は一変した。

現在
国際的に普及した柔術はさらに安全面での配慮や競技人口の増大により他の格闘技と同様スポーツ化の様相を見せ始め、いわゆるモダン柔術という相手のバックを積極的に狙って試合を優位に運んだり、護身術、格闘技の観点から見て考えられない試合展開(お互いに尻餅をついて向き合い、コントロールを試みるダブルガードなど)が見られてきた。
これに対してグレイシー一族(特にIBJJFに関わっていないエリオ派)らを中心とした保守派や、独特のアプローチで柔術とMMAの技術の相互互換性を志向し続けているエディ・ブラボーからIBJJF主催の大会が主催されるようになり、Metamorisをはじめとするポイント制を廃したグラップリング、柔術大会が話題を呼び始めている。

日本における団体の設立
日本では、1997年(平成9年)に渡辺孝真を会長とした日本ブラジリアン柔術連盟(JBJJF)が設立された。
また2008年(平成20年)2月に、ヒクソン・グレイシーを会長とする全日本柔術連盟(JJFJ)が設立された。

JBJJFって?

JJFJって?
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